明けましておめでとうございます。旧年中はご信徒の皆様はじめ関係各位に大変お世話になりました。本年も宜しくお願い申し上げます。元朝零時の護摩法会を厳修し、三賀日には朝勤行に『仁王護国般若波羅蜜多経』を読誦し玉体安穏・天下泰平を祈り、午後1時から護摩修法を行い新春祈祷と致しました。
昨年より住職が定住することになり、実は就任以来はじめて正月に本堂を開けました。東京から通っていた時は28日の初不動大祭の準備と開催に来るのが精一杯で、正月三賀日は宮城県にある法友の寺に助法に行っておりました。
この法友は大正大学の同級生で大学院まで計8年間同じ研究室で学んだ仲間です。よく語り、よく喧嘩もし、よく一緒に呑んだポン友です。彼の寺も不動尊を本尊とする祈願寺で、彼の父親である先代の努力で沢山の参詣者が来る様になりました。先代は拓大空手部の出身で「押忍の精神」と独自のアイデアで様々な事業を成し遂げました。中でも一番の偉業は、身体を張った行者として21日間断食・21万枚護摩を修行してその灰を地元の土と合わせて世界最大の塑像不動明王を造ったことです。東日本大震災でこのご本尊が損壊し、その修復に三年の歳月が掛かりました。その間、先代和尚は好きな酒を一切断って寺と被災地の復興祈願の願掛けを致しました。そして修復が成り、その年の秋の大祭に修復落成法要を行いました。直会で願ほどきの御神酒を飲み、自ら山伏神楽を舞って祝いました。自身の分身ともいえる御本尊の修復の喜びはこの上ないことであったでしょう。しかし、その晩突如として遷化されてしまったのです。まるで自ら本尊の中に入り一体となられたように。
翌朝法友からの電話で私も遷化を知り、翌日直ぐに駆けつけました。既に納棺が済んでいましたが、晒し木綿の宝冠と結袈裟を着け、湯殿山信仰を伝える寺の山伏住職としての威厳を正しておられました。法友の祖父が湯殿山注連寺の行人から真言僧となった方で福生海といわれる方です。先代様も元は隆福と名乗られていましたが、初代福生海の三十三回忌を機に自らその名を襲名されました。おそらく、湯殿山行者としての魂を受け継ぐ覚悟を自ら示めされたのでしょう。偶々ですが私も若いときから月山・羽黒山・湯殿山の出羽三山を信仰し山伏修行をしており、塑像本尊落慶法要には法螺貝役としてお手伝いさせて頂いておりました。そのようなご縁もあり、先代様に対しては法友の父としてだけではなく、行者として尊敬しておりましたので突然の入滅はショックでした。しかし、同時に命がけで本尊に使える姿をも見たような気がしました。
法友は私と違い学問を続けオランダに留学し、帰国後も東北大学大学院博士課程に在籍しました。しかし、先代の遷化の後は後任住職として寺の勤めに専念しなければなりません。院代さんもいらっしゃいますが、兼務寺もあり先代住職の抜けた穴は大きく、特に正月はほぼ1時間毎に護摩祈祷を行うので休む暇もありませんでした。そこで、護摩が焚けて、太鼓を叩けて、法螺貝が吹けるやつということで助っ人をたのまれたのです。法友の手伝いと共に先代様の供養にもなればと思いながらコロナ禍の時期以外は毎年正月に通っておりました(実は収入の少ない覚盛寺を慮って法友が呼んでくれたとも思うのですが)。
昨年秋まで私は今年の正月も手伝いに伺う心づもりでいました。しかし、法友は私にこのように言いました。「おまえが来てくれれば助かるのは事実だけど、佐賀の寺に住んで活動する以上は自分の寺を優先するのが当然だ。まして信者寺でこれからお詣りの方を増やそうというなら正月に居なくてどうする。俺の寺もおまえをいつまでも当てにする訳にもいかないし、これから先のやり方を模索する時期だから、それぞれで頑張ろう」と。
毎年ご挨拶をしていた彼のご家族やお寺のスタッフ、総代さんに会えなくなるのは少し寂しいですが、私は彼のことばこそ真の友情だと思いました。自分の目の前の都合ではなく相手のことを優先し大切に思う気持ち。自分の命を預ける本尊にこそ近くに居るべきということ。彼も先代様の魂を確かに受け継いでいると思います。これからも、同じ不動明王に使える行者として互いに精進したいと思います。
因みに、彼の寺は宮城県美里町にある神寺不動尊松景院といい、真言宗智山派に所属します。東北三十六不動尊札所でもあります。お近くに行かれましたら是非ご参拝下さい。
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